著者 早瀬耕氏との出会い
あなたは、早瀬耕という作家をご存じだろうか?
私が彼の作品に出会ったのは、『未必のマクベス』という本だった。
いつもそうだが、本とは大体本屋をぶらぶらしているときに出会う。
特に、その作品は、本屋の特別な熱量を感じさせる、POPにあった。
そこで手に取ってからの付き合いになる。
気に入った作品は、作者を追い求めていく私の習性があり、その後彼の作品を追っていくのだが、なんと著作が少なくて驚いた。
『グリフォンズ・ガーデン』1922年
『未必のマクベス』2114年
『プラネタリウムの外側』2018年
『彼女の知らない空』2020年
と、単行本だけで4冊なのである。
「えっ!これだけ?」と失礼ながらも思ったものだが、その間の作者の人生まで知る由もなく、一冊一冊読んでいった。
なぜ、ひきつけられるか。
それは、圧倒的な静寂なのだ。美しい文体が作り上げる広がりのある世界観にさまよいこんでいく。
『彼女の知らない空』
この本は、私にとって待望の本だった。
しかし、短編集だった。
『未必のマクベス』という長編小説で一気読みした私にとって、前出の『グリフォンズ・ガーデン』『プラネタリウムの外側』は、連作のような体裁であったように読んだが、まさかの短編集だったのだ。
しかも、目次がない。
いささか、おどろきを隠せなかったが読み進めていくうち、この作品が本当に伝えたかったであろうことが分かってきた。
静かなる恐怖と戸惑い。
著者は、「小説丸」というインタビュー記事の中で
基本は、夫婦の恋愛物語をたのしんでもらえる、エンターテインメントを意識しました。引用:小説丸
と語ってらっしゃる。
確かに、いろいろな世代の夫婦の日常が描かれ、お互いを思いやることや少し冷めた夫婦関係がある。
どこにでもある夫婦の姿なのだ。
しかし、時は現在より少し先を行っている。近未来という硬質な響きではないが、来るのか来ないのかわからない、もしかして、もうその渦中にいるのかもしれない時である。
憲法九条が改正され、自衛隊に交戦権が与えられている。しかし、その時を生きる人々は、まるで戦争や紛争に関係ないかの如く普段の生活を送っているのだ。
与党内でさえ反論があった憲法改正は、教育環境の整備などの追加条文とワンパッケージ方式で国民投票を実施した。 投票率六十五パーセントのうち過半数の五十五パーセント、約三千六百万人の有権者が憲法改正に賛成票を投じた。 それから一年半が経ったいま、「喉元過ぎれば」ではないだろうが、ほとんどの国民やメディアは、憲法が改正されたことさえ忘れてしまったのではないかと疑う。 (戦争ができる国になっても、多くの人にとって影響のある変更ではなかった、ということだ)『彼女の知らない空』本文引用
しかし、主人公は自分や自分の家族が、まるで知らず知らずのうち大きなものに巻き取られるように、戦争に加担しているのを知っている。
そこに、苦悩があるのだ。
戦争とは、国と国だけの争いだけではない。人として生けるものは、社会の中で何かしら戦っているものである。
『東京駅丸の内口、塹壕の中』では、過重労働で疲弊していく主人公の姿が書かれている。
国や会社という大きなものに対して、個人はなんと小さきものなのだろう。
これが全体を通して流れるテーマのように思える。だから、私にとっては、とてもエンターテインメントとして気楽に読める作品ではなかった。辛かった、切なかった、そして突き付けられているものが重かった。
著者の早瀬耕氏は、そんなきつい言葉で読者に問いかけようとしないが、私にとってはあまりに身近に感じられてしまったのである。
それは、読者の年齢、置かれている立場でとらえ方は様々だろう。 スマートフォン・PCに対応したアフィリエイトのA8.net
著者 早瀬耕氏の作品の世界
私にとって内容はかなり重かったが、書きぶりは、決して重くないのである。
一人称で語る時、女性であれば「私」
男性であれば、「ぼく」「俺」「私」 が一般的であろう(方言で語られるときは別だが)
本作品は、どの物語も「ぼく」が語るのである。
自分のことを大人になって「ぼく」と話す男性にどんなイメージを描くだろうか。
- 未熟さ
- 若者性
- 少年性
- 孤独
- さみしさ
- 未来
- 清潔感・・・・などが連想される。
「ぼく」が語る物語は、大きなものになす術もなく立ちすくむ自分を見ることができ。
無自覚のまま無責任に生活する隣人にどう接するか。どう心を寄せることができるか。
誠実な主人公の「ぼく」に私自身を試されたりしているような、緊張感があった。
今の世の中に求められるもの
現在2020年にこの作品が、発表されたことにどんな意味があるのだろう。
憲法改正問題、新型肺炎の世界的蔓延、人種差別の問題、それらに伴う、集団ヒステリック症状。