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終末期医療を在宅医療でうけて 【父の場合】

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父が亡くなり百ヶ日を迎え、それを機に納骨式を行いました。

それまでの日々、いろんなことがありました。

 

まだ、これからも様々な手続きその他、もろもろが継続中ですが…

今となっては、父が要となり家族をまとめてくれていたんだと思う日々です。

時々、胸がギュッとなりますが、ゆっくり父との思い出を探り心のフォルダーにきちんと整理していきたいと思います。

 

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終末期医療について

 

父が病気になった時かその前か忘れたのですが、看護師をされていた方がご自身のご主人をがんで亡くされ僧侶になったという本を読んでいました。

この本が、父を看取る際の心の準備としてずいぶん心の支えになりました。

ただ、これは父の場合に限るのです。

というのは、父が癌にかかり抗がん剤治療、放射線治療、オプジーボ、そして抗がん剤治療と様々な治療を受け、果敢に治療をしてきました。

しかし、もう効く薬はないし、がんが進行しているという状態で、在宅医療を選択したのです。

今、いろいろな病気で在宅医療を受けている方がいらっしゃると思いますが、父の場合もうゴールがある程度決まっている。

それまでの時間を在宅で過ごす(父の意向)だから、それに向けて家族はどう向き合うかという場合です。

ゴールの見えない長期にわたった病気で在宅医療をされている方には、「在宅医療がいい!」と明言できません。

家族が疲弊してしまいます。

そうなると肝心な患者さんに明るい顔を向けられなくなるのではないでしょうか。

私でさえ、慣れない介助で心も体も疲れていました。

 

在宅医療

 

通院から在宅医療へ

 

父の体力が落ち血液検査の結果が思わしくなくなってから、今までかかっていた総合病院の先生から「病状が、急変した時にすぐ駆けつけることができないので、在宅医療を併用してほしい」と言われました。

これは、かなり進んできたのだなと思いました。

その日のうちに、その病院のソーシャルワーカーの方と面談し実家の近くで在宅医療をしてくださる病院を探してもらいました。

父の場合は、癌なのでみてくれる病院が少なかったのですが幸い隣町の病院がありそこにお世話になることになりました。

そこからは、ソーシャルワーカーの方が中心となって病院間の連携の手はずをしてくださって、すぐに在宅医から連絡がありました。

 

在宅医療とは

 

最期を自宅で過ごすということです。

また、末期がんなので「治す」ということはできません。

「生きてる時間を少しでも楽に過ごす」ために緩和医療が始まりました。

父は、「自宅で庭を眺めて過ごしたい。みんなと一緒に過ごしたい。ただ、いよいよ危なくなったら、病院の緩和ケア病棟に入院したい」

ということが希望でした。

なぜ、緩和病棟に?と聞くと

「私が亡くなったら、体を拭いたりしなければいけないのでそんなことを娘たちにさせたくない」

というのが理由でした。

死というのは、そこに至るまできれいな話だけではなく下の世話や亡くなった後の処置もあるのです。

それを娘にさせたくない。というのが父の願望でした。

「最期までここ(自宅)で過ごしていいよ。そんなこと心配しなくていいよ」と伝えましたが、一応、緩和病棟(ホスピス)の予約をしてきました。

父にそのことを伝えると、納得したような穏やかな笑顔でうなずいていたので、それでよかったのだと思います。

結局、最期まで自宅で過ごせましたが。

 

死にゆく人は、日に日に状態が変わっていきます。

在宅医療の病院に初めてかかった時は、父を連れていくことができました。

その時、面談したのは主治医の先生(この時点でがん治療の総合病院の先生から主治医が変わりました)

在宅支援部看護師、24時間365日支援の訪問看護チーム

後日、在宅医療のための薬剤師(主治医の指示のもと薬を自宅まで届けて説明してくれます)

介護保険の申請をしたので、ケアマネージャー、医療機器メーカーの方、自治体の介護認定の審査員…

このときから、ケアマネージャーさんが関係機関の連絡、調整をしてくれるキーマンになりました。

たくさんの家族ではない人が、実家を訪れる。

こういうことは、今までの生活を一変させました。

私も実家に張り付くことになります。

看護師さんが一週間に二度訪問してくれることから始まりました。

その時はまだそんなに来てくれなくても…と思っていました。

それが、毎日になり、午前午後の二回になるのはそう長くはなかったです。

 

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看護計画書

 

在宅医療に看護計画書を作っていただき、父の看護計画と家族のケアという項目がありました。

確かに、家族は不安を抱えます。

この先、父の状態がどうなっていくのだろうか。

父と母は離れて暮らしているので、そのことをどう伝えようか。

というのも認知症がひどくなった母は、父のがん治療に取り組み始めたとき、デイサービスセンターに通っていました。

病院の帰りが遅くなった時、一人で待つことは困難な状態でした。

父が入院をした時も誰かがついていないと、母の不安は増していました。

ちょうど、その時期私は仕事は辞めていましたが、子供の高校受験を控えていましたので、母の世話を全面でできませんでした。(他の家人は、働いているので対応ができません)

母のケアマネージャーさんと父の状態を話し合い、ショートステイができる日を極力多く入れてもらいました。

どうしてもという時は、私が泊まっていました。

そうこうしていると、母は肺炎にかかってしまい、入院することになりました。

ショートステイには、健康な体の人しか預けられないのです。

入院先の病院には認知症ということを伝えてはいたものの、夜の徘徊があるということで、何度も呼び出され、その都度夜更けまで付き合ったことがあります。

その後、退院して今入所している特別養護老人ホームに入ることができました。

何かほかにできることがあったのではないか。

もっと、自宅で過ごせることはできたのではないかと何度も自問自答しましたが、父がそうしてくれと言いました。

というか、言ってくれました。

正直、その後のことも考えると正解だったと思います。

 

コロナ禍で

ステイホームのステッカー

ステイホーム



死の半年くらい前、一瞬コロナが落ち着きました。

その時は、まだ足が少し弱くなったようでしたが、まだまだ元気でした。

だから、これからよくなるとは考えられなかったので、好きでよく行っていた京都旅行を提案しました。

京都なら観光都市でもあり、車いすやタクシーその他の援助も得やすいと思ったからです。

すると父は、面会制限があり外泊もできない母がいっしょに行けないなら行かないと言うのです。

事前にいろいろプランを練っていたのですが、旅行ってどこに行きたいかではなく誰と行きたいのかということなのかと、つくづく考えさせられました。

また、旅行でなくても足腰が弱ってきていたので散歩に行こうとか、近くに食事に行こうとか誘っても、がん治療をしているのにコロナで死ぬわけにはいかない。と外出も嫌がりだしました。

前出の「死にゆく人の心に寄り添う」では、

死の予兆は、おおむね三か月前から現れ始めます。

多くの場合初めに現れるのは、外に向かうベクトルがなくなって、内向きになることです。(中略)特にこれといって体がつらいわけではありません。考えてみれば、死に向かうとき外界に興味がなくなるのは、当然のことではないでしょうか。(中略)じきに着地しますというときには、もう出かけていく必要がありませんから、外の情報を収集する必要がなくなります。

家族が見ている世界と死にゆく人が見ている世界が、だんだん離れていく時期なのです。

父は、母を遺して死ぬわけにはいかないという強い意志があったので、とても用心深くなっていたのですが、それだけではなかったのかもしれません。

どう接していいかわからなく、途方に暮れてきました。

在宅看護師さんが入ってくださってから、当時の話を聞いてもらったり、死が近づいてきていた時、母に会わせようとしましたが、父が拒んだことがありました。

それは、母には会いたいでも自分の変わりすぎた姿を見て母がショックを受けるのではないだろうか。ということでした。

悩んで看護師さんに相談しました。

すると「親子は、自然に血がつながって生まれてくるけど、夫婦は自分たちの意志で関係を続けてきたのではないでしょうか。どうにか会わせて差し上げるのがいいと思います」と言ってくださりました。

そうなんですよね。

夫婦ってもとは他人なのに、お互いの意志で結ばれ良いことばかりではないにしてもこれまで結婚という形を維持してきた同志なので、もう会えないという時に会っておくということは、大切なことなのかもしれません。

母の施設の特別な計らいで、二人は会うことができました。

幸い、施設に帰った母の様子を聞いてみましたがすっかり忘れているようで、動揺したりすることはなかったということでした。

複雑な心境でしたが、それでいいと思いました。

 

死に向かうとき、体と心はどうかわるのか

 

本書では

①死の3か月前頃から起こること

②死の1か月前頃から起こること

③死の数日前頃から起こること

④死の24時間前頃から起こること

と、リアルに書いてあります。

看取った私としては、正にその通りのプロセスでした。

 

痛い、苦しいということを薬の力で上手にコントロールしてもらい、死にゆく人に必要のない点滴をせず、心臓マッサージもせず、食べたくないものは無理に食べさせなく、飲みたくない水は飲ませなく、眠りたい時に眠り、起きたい時に起き目を開き、話せるときは、その話に耳を近づけました。

あれだけ足が浮腫んでいたのに細っそりしていきました。

死の4日前、うつらうつらしていたのにパッと目ざめ意識がとてもはっきりしました。その日、高校の卒業式を終え実家に娘と共に泊まっていました。

「おじいちゃんが起きたら、卒業証書と卒アル見せよう」

と言ってた娘が、夜お風呂から上がった時に目を覚ましたので、二人で学校のこと友達のことを話していました。

父は、うまく声が出なくなっていたのでオーバーアクション(顔)でそれに応え、万歳と喜びを表現していました。

 

最期の日



その日、ちょうど訪問看護師さんが尿量を見て帰っていこうとされたので、玄関先で「もうそろそろなのでしょう?」と私一人で尋ねました。

医療関係者ではなかったのですが、尿量が減った時がその時だと覚悟していたからです。それも本に書いてあったから知っていたのです。

少し躊躇されましたが「私、大丈夫ですから」というと

「脈が機械では取れなくなり、尿量がほとんど増えてません。今夜か明朝です」と言ってくださったので、私の家族を急いで集めました。

看護師さんが帰られて、痰のゼーゼーがひどくなり吸引をするのですが、うまくいきません。

でも、それも自然現象であり本人は、苦しくないということも知っていました。

みんなが集まり、声をかけます。

耳は、最期まで聞こえていると言われるので。

最期は、目を開けました。

「意識のないまま死にたくない、最期まで美しいものを見ながら死にたい」と白内障手術を希望していました。

最後の抗がん剤治療をした日の前日、白内障手術を受けました。

見えるようになったと喜んでいたので、家族に囲まれたことを見ることができたことでしょう。

それが美しかったかどうかという話は別として。

 

患者家族から遺族に

 

遺された者の心の在りようは様々です。

私、実際に暮らしていた家族、私の家族。そして親戚。

それぞれに”父の死”の受け止め方は違います。

生きていく人々の日常は、続いていきます。

著者のように僧侶になることは考えていませんが、死んだらどうなるかという問いは消えました。

私なりの答えですが、肉体が無になるということです。

子どもを産んだ経験から、「ホントに裸で何も持たずに産まれてくるんだ」と実感しました。

そして、死ぬ時も何も持たずに体は自分で血圧が下がることで内から奇麗にして、枯れるように死んでいくのです。

 

父が立派な人生を送ったかどうかはわかりませんが、この世に一瞬生きたことは事実です。そして、いろんな人と関わった。

遺族になった今、急速に父との距離が離れていっています。逆に、父が心の中に濃密に入ってきて距離が縮まったような気もします。

 

いつかは必ずくる

命のつながりを表す手と手



親の死を看取ることができて私は、幸せでした。

順番を間違わなかったことは、親孝行の一つだと思います。

実は、父の闘病中、二度人間ドックに引っかかり精密検査を受けました。

精密検査の結果が出るまで普通なら怖いとか不安を感じるのでしょう。

ところが、「もしガンだったら、とっとと手術をして父の闘病に付き合いたい」と少しも怖くなかったのです。

いつか、私にもその時が来るでしょう。

突然、身近な人を失った方の悲嘆は想像することもできません。

父を亡くした今、著者の玉置妙憂さんの書かれたことが実感を伴って沁みてきます。

最期をホスピスで迎えるか自宅で迎えるか。

それは、いくつかの条件がありますのでそれぞれです。

ただ、死にゆく人に寄り添うことが何よりだと思います。

人の最期は、ホスピスも在宅も医療ができることは同じでした。

ほんとに全く同じ。

患者さんと患者家族の方が、どんな経過をたどりどんな医療ができるのか、よく理解してその日に備えることができることの唯一だと思いました。

 

ここまで、読んでくださってありがとうございます。